蒼井真理
――15歳の頃から代表に招集され全てのカテゴリで世界大会を経験し、W杯と2度の五輪に出場。 瞬間的なスピード、強さと高さを兼ね揃える恵まれた肉体。マンツー・マン、カバリング、ラインコントロールなど守備センスだけでなく攻撃参加のセンスも持ち合わせ、それを裏付ける足下の技術もある
――日本人DFには稀有な、低く抑えたロングフィードを蹴る事もできた。 順調に成長していれば、若くして日本を飛び出していたかもしれない。しかし松田は横浜で増長と反省を繰り返し、マリノスを愛する人たちに歓喜と落胆を与え続けた
「若いときから、なにかあると『ゼロからのスタートだ、一からやり直す、もう大人になった』と言ってきたけど、俺はそれを何度も繰り返しているよね。キリがないとわかっていても、そういうことなんだ」松田直樹 2007年
――小学1年の時に兄の影響で地元の天沼FCでサッカーを始める。当時のポジションはFW。相生中では3年時に全国大会に出場。前橋育英高では3年連続で選手権に出場したが、1年と3年は初戦敗退、2年の時は初戦で負傷交代し以降2試合は欠場と結果を残せず
高校1年の時に呼ばれたU-15日本代表で、小嶺監督にフィジカルの強さを見込まれてCBにコンバート。93年のU-17世界選手権に中田英寿などと共に4試合にフル出場し、メキシコ戦でゴールを決めるなどベスト8進出に貢献
翌94年のアジアユースでも全6試合に先発、2得点を挙げて準優勝とワールドユース出場権獲得に大きく貢献。 日本のユース年代が世界を経験し始めた最初の世代の中心選手で、この頃から「近い将来のA代表CB」として期待される
95年に井原・小村ら日本代表CBがいるマリノスを選び入団。 開幕戦から右SBとして先発出場を果たす。サントリーシリーズは代表招集もあり8試合の出場に留まったが、ニコスシリーズは全ての試合に登録メンバー入りし25試合に先発出場
13節の名古屋戦で初ゴールを決め、ヴェルディ川崎とのチャンピオンシップ2試合にも3バックの一角でフル出場。ルーキながら物怖じしないプレイでカズやビスマルクと渡り合い、クラブ初のリーグ制覇に貢献。4月に行われたワールドユースでも中田英寿や奥らと共に4試合にフル出場しベスト8に進出
96年のアトランタ五輪。最終予選には体調を崩し出場できなかったが、本大会に最年少で招集されストッパーとして全3試合に出場。グループリーグ突破はならなかったが初戦でブラジルに完封勝利。ブラジルのサビオ、ナイジェリアのカヌなどワールドクラスの選手相手に引けを取らないプレイを見せた
その一方でこの頃、急激な環境と周囲の変化に松田の自信は増長となり、体調管理も疎かになっていた。その結果として満足のいくプレイが出来なくなると、今度は逆に極端に自信を失って塞ぎ込んだ
プレイもコンディションもメンタルも安定しないまま、クラブでもポジションも取ったり失ったりの期間が続いた。98年には右膝半月板の手術で約5ヶ月もピッチから遠ざかる
しかし翌99年は復活の足がかりとなる年となった。サッカーへの取り組みを根本から改め、クラブの象徴であった井原正巳から最終ラインのセンターのポジションも奪った。一方でトルシェ指揮する五輪代表では出場機会を与えられない事から「クラブに専念したい」と辞退し遠征先から帰国する事件も
川口能活と松田直樹の晩餐 あの夜、僕はトルシエのためにマツを説得した - みんなのごはん (51 users) http://bit.ly/1IwOL9z
それでも2000年のシドニー五輪には招集。直前にコンディションを崩し出場は2試合に止まったが、トルシェの評価は高く2月にはカールスバーグ杯のメキシコ戦でA代表デビュー
リーグではアルディレスの指示でリベロとして積極的な攻撃参加を見せ、最終節での退場などもあったが1stステージは逆転優勝。ベスト11にも初選出
2001年は自分より若い選手が増えたチームの中心として、過酷な残留争いを経験。突然の父親の死去など精神的に追い込まれながらも、周囲を(時には相手選手や審判までも)叱咤しつつ 「もし降格してもマリノスに残る」 と悲壮な覚悟で臨んだ最終節でなんとか残留を決めた
代表ではレギュラーに定着するも、サンドニのフランス戦ではPKを与えるなど5失点。プライドをズタズタにされた
日韓W杯でも全ての試合に右DFとしてフルタイム出場し、ベスト16進出に貢献した。クラブでも代表でも、苦しい状況にも以前のようにプッツリ切れる事なく責任感を最大限に表現した1年だった
オフの契約交渉では4年3億を求め「他でやってもいい」「社長を出せ」と息巻くも、左伴社長との5時間の交渉の末 「自分が勘違いをしていた」と反省。「最後はマリノスで辞めたい」と、生涯マリノス宣言
2003年は責任感と昨年得た自信が過剰に表れた1年となった。相手に抜かれる事を極度に嫌い、位置取りが深くなりすぎた。負傷で出遅れた上に復帰時期を見誤りシーズンを通してコンディションは安定しなかった
「彼はプライドが高い。だからDFラインで自分が余り、他の選手を動かしたがる。何故か。自分で競りに行って抜かれることが怖いからだ。だから勝負を避けてしまう。逃げてしまう。競り合えば強いのだが、逃げている間は一流にはなれない。だが、彼には直接指摘することはしなかった」岡田武史
「欧州で通用する、唯一人の日本人DFだと思っている」岡田武史、1stステージに優勝した神戸戦の会見で松田について。2003年
「松田は『フリ』とか発言で誤解されることも多い。しかし根は純粋で情熱的な人間だ。『チームのために』という気持ちも持っている。 ただ、少し勘違いをするタイプだった」岡田武史、シーズンを振り返って松田について。2003年
「松田は不思議な選手。彼が入るとガラっとチームの雰囲気が変わる」岡田武史、膝の手術から復帰した松田について。2004年
――復帰戦では責任感の裏返しが警告・退場に繋がった。チームは完全優勝を果たしたが、ほとんど満足のいくパフォーマンスは見せられず、代表からも遠ざかった。年末には関節骨棘障害の治療のため右膝を手術し天皇杯の3試合は欠場した
昨年末からの苦しいリハビリを乗り越えて再起を図った2004年、2月に三ツ沢で行われたA.C.L.ペルシク戦に途中出場し復帰を果たす。テスト起用されたA3杯では最終戦の上海国際戦で久し振りの公式戦ゴール
リーグ戦では昨季の反省から見せた強気のディフェンスが祟って、1stステージだけで7枚の警告を受け3試合に出場停止。それでも 「これが俺の持ち味」 と反省の色なし
2ndステージも5節の広島戦にわずか11分で退場、累積警告も含め2試合に出場停止。2節の大分戦で終了間際に決勝ゴールを決める活躍もあったが、シーズン後半は勝ち切れない試合展開に苛立ち過剰なオーバラップを繰り返して守備放棄
岡田監督に諌められ、チャンピオンシップの2試合では自重し概ね守備に専念。浦和の強力な攻撃陣をFKからの1失点に抑え能力の高さを改めて証明した。フィールドプレーヤーとしてクラブ公式戦最多出場時間を記録したが、安定の2文字とは程遠い1年だった
代表では坪井慶介の負傷により7月から復帰しアジア杯にも帯同したが、先発出場は消化試合となったW杯1次予選のシンガポール戦のみだった
「トルシェとバチバチやり合っていたマツさん(松田直樹)の姿も懐かしいですね。僕が今まで対峙してきた日本人DFの中で、マツさんが一番敵に回したくない選手でした。頭がいい、体が強い。どの年代の代表でも重要なプレイヤとして招集されていたのは、凄くわかります」柳沢敦、引退に際し
「そして(松田直樹は)何よりもハートが熱かった。とにかく人が好きだったし、愛情も深かったですね。それがプレイにも出ていた。代表で一緒になれたのは、本当によかったです」柳沢敦、引退に際し
「相手にリードされて内容もサッパリで、サポータにもブーイングされて迎えたハーフタイムでも、選手みんな静かで意見を言い合う事もない。マツが1人ワーワー喚いてるくらいで(笑)」松永成立、GKコーチとしてマリノスに戻った2007年当時のロッカールーム風景を振り返り
とかいな暮らし@tokainakurasi
【コラム】今にしてわかる「戦う」ということ。小宮山尊信 - 川崎フットボールアディクト http://www.targma.jp/kawasaki/2015/08/03/post3412/
まさかの松田直樹記事(´;ω;`)
「マツさんに愛情があるから言いますけど、無茶苦茶でしたからねw(中略)自分がすごく嫌だったのは、自分の機嫌がいい時は、ミスっても全然いいんですが、機嫌が悪くなると、むちゃくちゃ言ってくるし、自分がミスっても、『わりー』って感じで。走らないし、人ばっか走らせるしw」小宮山尊信
……ホント、練習試合や紅白戦で小宮山はいつもマツの「怒られ役」だったもんなあw 傍から見てて、どんどん気持ちが萎えていってるのが手に取るように分かって少し不憫だった。移籍した後もマリノスの選手たちに「コミはまた "心の肉離れ" か?」って言われれるようなキャラだったし